至楽の譚
仏教が中国に入った当初の頃の話だ。 廬山(ろざん)の東林寺に住した慧遠(えおん)法師は、高僧として世に名声が高かった。時の皇帝は国師としてその教えを仰ぐべく何度も使者を遣わすも法師は頑として応じない。「山内にある虎渓の石橋は渡らない」と、自ら固い誓いをたて決して山を下りることはかったと云う。 この噂を耳にしたのが時の儒教の大学者 陶淵明と道教の大学者 陸修静。仏教を説いて尊しと仰がれる東林寺の慧遠なる人物の器量や如何なるものかと。遂にはこの二人、申し合わせていそいそと廬山の深山幽谷を杖を付きながら法師を尋ねて行ったそうだ。一方、慧遠は突然のこの訪問客を大歓迎して早々に寺へ招き入れる。仏・儒・道の三教の指導者が一処に会し、さぞや法戦を交わすことだろうと思えば何のことはない。三者「道」について大いに語り、和やかな歓談が時を忘れて続いたのだった。清談尽きることなく楽しくて仕方がない。 ところで、この寺の山門を出た石橋下には「虎渓」という深い谷がある。さて、そろそろ日が 暮れる。夜が来れば谷底から虎が出現するのだ。この寺の主に別れを惜しむ二人の客と彼らを送るこの主は山門までの道すがら尚も主客一体…。時を惜しむ足取りはゆっくりと、互いの心が一つになった声は高らかに、いつまでも楽しい話は尽きはしな い...。そうこうしてる間に、谷間の底から虎の嘯く声が轟いた。はっと、我れに返ったそ の一瞬、陸修静と陶淵明が法師に言う。「法師、石橋を渡っておられますよ」慧遠は足元 を見るや腹の底から大笑いした。これを機に三者はまた大笑いを重ねたのだった…。 人がこの世にどう生き、歓びを得るのか。文化や宗教を越えて大事なことは古来より何も変わらない。そこへ立ち還り見れば、争いも啀み合いも無くなるのではないか。人と関わり、笑い合えるということが、如何に大事なことなのか。そして、相手の立場を思いやって、互いを尊重し、心情を共有出来るということ。何事にも捉われることなく、また憂えず即今只今を精一杯楽しむだけのこと。そんな至楽大解放の境涯を画にしている。扇面中央に慧遠、右が陶淵明、左が陸修静…そして手前で笑うのがあなただったなら最高である。