宝珠の譚
「無欲な笑い」…。 これは道釈画に於いて福の神の表情をつくる際、私が必ず念頭に置いていることだ。 勿論、どんな造形物にも創り手の感性やその時の心境が投影されるものだとするならば、私自身日々に暮らす心をこの境涯に置く努力が要るのである。この決して見返りや代償を求めない神仏の笑みを創り出そうとする行為は意志と言うより願いに近いものかも知れない。 今回は赤楽の土でザックリと大振りの大黒天の香合を造った。焼成には京都山科の和楽窯を拝借した。 にぎり飯ほどの土の塊を掌の上に載せ、これを両手で丸めながら大まかに形を拈る。指先で土を貼り付けては爪楊枝で削り取る作業を何度も繰り返す…。いつしかそれは宝珠(ほうじゅ)を両手で大切に掲げ、福々しく微笑み掛ける大黒天の確かな表情を形造っていく…。宝珠とは災難を除き、人々のあらゆる願いを思いのままに叶えると云う仏の持つ宝の玉である。…とは言え、人の欲望は際限無く…果ては人を傷付け、要らぬものまで貰っておこうとする始末。大黒天が与えてくれる自在の宝は「足ることを知る心」にこそ利益(りやく)をもたらすもの。即ち、日々自らの分に感謝し、その思いを他に実践してはじめて得られる「恩恵の宝」なのである。 この赤楽の大黒天香合は清水寺貫主 森清範 猊下の掌中を経て、その名も【沃饒】(よくじょう)と銘された。 「沃」は大地が肥えているさま。 「饒」は豊かであるさま。 肥沃な大地があるならどんな小さな種であろうと豊穣な実りを導くだろう…人もまたこれに同様。心に肥えた大地ある者はどんな願いや希望の種も大きく豊かに育んでい ける。…と私にはこの銘に込められた意味がそのように解釈出来るようで、香合を手に取り眺める今も何とも嬉しく暖かな心持ちになれるのである。 まさに大黒天の持つ宝珠の利益がここに在る。