小さな奇跡の種はふとした日常の中にある。
そして自分の求める道や人生に必要な奇跡は既に眼の前に用意されているのかもしれない…。
ふと佛の因果律を思う…。
その奇跡に思いを致す心こそが奇跡を生むのだと私には思えるのである。
この晩秋の一日、久方振りに相國寺内の大光明寺に我が禅の師を訪ねた…。
京都五条に住まいしながら久方振りとは誠にもって不肖の弟子である。
衰えぬ矍鑠(かくしゃく)とした御威徳と龍泉の如き深く涸れることの無い御見識にはいつもながら敬服させられ、その場の空気だけでも実に多くを学ばせて頂く。
禅僧と外護(げご)者との禅的対面を画題としたものを我が道釈画では「禅会(ぜんえ・ぜんね)画」と呼ぶ。まさにその画境をこの身でリアルに感得出来るのであるから現代の道釈画家としてこれを学ぶに優るものはない貴重な体験といえる。
この老師との禅会に想を得て画いたのがこの「祖師観音対面図」対幅である。
この対幅仕立ての達磨図は平成の御世の最後に七類堂が挑んだ渾身の一作と言えよう。
「達磨 千佛に嫌われ、群魔に憎まる」と云う言葉がある。何ものにも心動ぜず、阿(おもね)らず、面壁九年只管(ひたすら)に佛性を見つめ悟道を貫徹するその「介然不群」の様を形容しての故であろう…。
先ずはこの達磨、東大寺戒壇院の広目天さながらに…永遠世界のその果てを静かに…さりながら天地をも打ち崩さんばかりの定力(じょうりき)を内に鎮め、真正面にこれを睨むのである。睨む先はこれ虚空(こくう)であり、カラリとして何もない…。内なる佛性本来の面目をただ只管に見つめるのである。
さて、この祖師達磨の真っ向に対面するのが白衣の観世音菩薩である。御覧の通り、この観音も今までの作例とは随分と異なる趣きで画いてみた。
観音はその大慈大悲を以って衆生(しゅじょう)をあまねく済度する。この白衣の佛の慈眼の先には浄土世界への無縁の衆生救済がある…。
達磨の只管に内へ向かう「見性成佛(けんしょうじょうぶつ)」と観音の普く外へ向ける「大慈悲心」…この対面のコントラストの妙を私の平成時代を締め括る最後の道釈画に何としても画きたいと思った。
双幅で相対する達磨と観音は鏡のようで…絵画的にはこの対比を明確に楽しむが、実はこの二尊に自他の境は無いのである。これこそ私がこの画題に込めた本当の眼目なのだが…道釈画は其々の主観で訓み解くもの、これ以上の註釈は禅味を損ねかねないので控えることにしておきたい。
二尊の肌には極上の烏龍茶を使い「茶彩」を施した。雪平鍋に煮出したこの琥珀色の茶を墨鉢に移し、水で追いながら幾度も塗り重ねていく…。
さても烏龍茶は私が好む唐紙の風合いにやはりとても良く馴染む。…そして極め付け、最後の仕上げにこれを茶紙で裏打ちすれば古格幽玄の道釈画の世界を醸し出す訳である。
我が師を訪ねた…たったそれだけが機縁である。
この一刻一瞬の機縁がかくも人に道を指し、創造の術(すべ)を生むのであるから不思議なものである。
まもなく平成が終わる…。
27歳から現在に至る30年の間、この筆に受けた作品は数知れず達磨図だけでも3000点を超える。
恐ろしいほど静かに鋭く見透すその眼光に、この平成最後の達磨はいったい何を映し出しているのだろう…。
「己が行く末は道に依り定まらず、それを歩み進む者に依ってこそ道は決まるのだ…!」
いつもの事ながら画面の向こう側から遠雷の如き時空を渡る声がしたように思えた…。
そぅ…我が道は雪舟の画脈に依り決まっているのではなく、私がこの道をどう進むかに依って道釈画の未来が在るのである。
新時代への門出…平成最後に描くこの達磨にトンッと背中を押され見送られている気がする年の瀬である…。