墨書の譚
文字を書く楽しさを味わったことがあるだろうか。自身の境涯が、筆と紙との鬩ぎ合いや調和の末に記されていくのだ。それは実際、書く人にしか得ることの出来ない楽しさだが、東洋の象形文字には視る楽しさもある。天谿さんの書の魅力のひとつは、墨の濃淡に起きる調子と、密集度の均衡による文字配列と言える。その書風は、書家の手とは違い、自由で柔らかく、独創的だ。今更ながらに哲学的であり絵画的なのである。 話を伺うと、書の影響を受けた人物は一休禅師、慈雲尊者、富岡鉄斎、橋本独山、本阿弥光悦、遠くは金農…とか。書家の名は談話の中に一人として出てこない。形式にとらわれない解釈に本質を見いだし、その有り様や驚きを体得したそうである。揮毫の楽しさ、それを視ることの楽しさは、頑なな形式に支配されるものではないのである。